ー「ロカボの研究を始めたきっかけはどのようなことだったのでしょうか?」
2002年に北里研究所病院に赴任しました。糖尿病外来の患者さんに食事療法で日々節制し、良好な血糖値を保っていた70代の紳士がいらっしゃいました。いつもなら良好な血糖値を喜ぶはずの紳士がその日は悲しい顔をされていたのです。そして、このようにおっしゃいました。
「先日、77歳の誕生日を迎えました。家族がレストランで喜寿のお祝いをしてくれたのですが、家族みんながフレンチのフルコースを食べている中、私だけワンプレートでおしまい。自分は家族と同じものを食べられない、自分は自分の祝いの席ですら好きなものを食べることができない、ということがどれほど悲しかったか。」
その話を聞いた時、“糖尿病の患者さんに勧めているカロリー制限食は、その人の幸せな人生を奪ってしまっているのではないか? 医学的には正しいことであったとしても、人生を豊かに幸せにできない治療とは、医療として正しいことなのか?”という思いが閃光のように頭をかすめました。
そこから、「血糖値をコントールでき、もっと楽しく続けられる食事療法」「あの人がやっている治療法を自分もやりたい!と思ってもらえる食事療法」を考えるようになったのです。
日本で、『ミシュランガイド東京2008』が発行された2008年のことです。接待の利用が多いお店だからこそ、糖尿病の方向けのメニューがあるのではないか?と考え、ミシュランガイドに掲載された150店すべてのレストランに手紙を出したところ、10店舗から糖尿病の方向けメニューがありますとお返事をいただきました。実際足を運び食べてみましたが、残念ながら品数を少なくしたり、野菜中心というメニューで糖尿病治療食と呼べるものではありませんでした。それでも“10店のお店が糖尿病の食事療法を意識してくださっている”ということを嬉しく思いました。
その翌年、ひらまつグループのレストラン『ボタニカ』(2017年1月閉店)の阿曽達治シェフから 「糖質制限のコースを始めましたが、山田先生は糖質制限食を糖尿病治療食として認めますか?」というお電話をいただきました。後で詳しく述べたいと思いますが、そのころDIRECT試験という試験の報告で、糖質制限食こそがカロリー制限食よりも血糖管理を改善し、肥満を是正し、高脂血症も改善できることを読んでいた私は、「もちろんです。ただ、主食が好きな日本人には継続できないと思います。」とお答えしました。すると、阿曽シェフは「では、試しにうちのレストランに食べに来てください。」と仰ってくださいました。
”パーフェクト!”
阿曽シェフの料理を食べた後、そのおいしさ、満足感、血糖値が上がらないこと(私自身比較的食後高血糖になりやすい体質です)… すべてが完璧であることに心地よい衝撃を受けました。外食では糖尿病治療食にならない!という私自身の根拠のない常識やあきらめを根底から覆していただいた瞬間でした。
時を同じくして、世界では栄養学の考え方が大きな変化を見せていました。こちらも常識が覆るような大変化です。2007年までのアメリカ糖尿病学会ガイドラインでは、1日の糖質を130g以下に制限することは推奨されないとするものでしたが、2008年に糖質制限食は肥満治療の一選択肢になりました。そのような経緯で、“「糖質制限食」はおいしく楽しく、続けたくなる食事療法になる”と活路を見出したのです。
ー「ロカボの定義は?」
一食あたりの糖質量を20~40gにする。これが大事です。というのも血糖は毎食ごとに上がりますので、毎食意識しなくてはいけません。血糖の上下動が大きいほど血管を傷めたり、認知機能を低下させるなどの作用を持っていますから、一食ごとの意識が大事です。一食当たり20~40gに加えて嗜好品を1日10gまで楽しんで、結果として70~130gにするという考え方がロカボです。
ー「糖質の下限を作ったことの意味は?」
糖質を極限まで下げることが良いということにしますと、我慢している自分を褒めたくなるストーリーが出来上がってしまいます。本来食べたいものを我慢している自分が偉いと。それだとカロリー制限と同じで、摂食障害に向かってしまう可能性もあります。食べないことを是としてしまうということが一番危険です。
極端な糖質制限とゆるやかな糖質制限を比較した論文では減量効果に差はありません。一方で、LDLコレステロール(いわゆる悪玉コレステロール)には差があります。悪玉コレステロールは動脈硬化を発症する原因といわれているものですので、低いほうが良いのですが、極端な糖質制限の方が高くなりました。血管の機能検査でも、極端な糖質制限の場合は機能が落ち、ゆるやかな糖質制限だと回復するというデータが出ています。
また、極端に糖質を制限すると、野菜も限定されてしまうため、十分に摂り切れない栄養素が出てきてしまうこともあります。そういう意味では、低栄養のリスク、低栄養に伴う貧血や骨粗鬆症のリスク、摂食障害のリスクも考えなくてはならなくなります。それが糖質の下限を採用した理由です。
ー「北里研究所病院の2階にある『レストランつくし』では、山田先生が監修されている糖質制限メニューが提供されています。サラダ、スープ、ボリュームたっぷりのメインにパンのセットで糖質が29.4g。おいしくてお腹もいっぱいに。しかし油が多くカロリーも高いようですが…それでも大丈夫なのでしょうか?」
2008年に報告されたDIRECT試験で説明しましょう。科学的に信頼度の高い無作為比較試験という手法で、2年間という長期にわたる介入を続けた研究です。
(*)参考:Iris Shai et,al. N Engl J Med. 2008;359(3):229-41. 「Weight Loss with a Low-Carbohydrate, Mediterranean, or
Low-Fat Diet」
カロリー制限かつ低脂肪食、カロリー制限食(高脂肪食(地中海食))、カロリー無制限の糖質制限食の3つの食事療法の有効性および安全性を、肥満患者に対して比較した結果、減量効果が一番高かったのは糖質制限食、次はカロリー制限食で、一番低かったのは脂質制限食でした。
またこの3つのグループのうち、HDLコレステロール(いわゆる善玉コレステロール)を一番上げたのも、中性脂肪が一番下がったのも、糖質制限食です。
ー「健康診断で中性脂肪が多いと指摘されたら、食事の油摂取を減らそうと思われる方は多いのではないでしょうか」
血液中の脂肪が多い、または脂肪肝であるというのは、食べる脂肪が多いからと考えるのはごくごく普通の物語ですよね。ところが、今世紀になってから、肝臓での脂肪合成は何に支配されているのかという研究が進んできて、実は糖質摂取が肝臓での脂肪合成を大きく動かしているということが分かったのです。だから糖質摂取を控えることで肝臓の脂肪合成が減り、脂肪肝も良くなり、血中の中性脂肪が下がりやすいというメカニズムが見えてきました。
2015年アメリカの食事ガイドラインでは「脂質摂取上限に関する勧告はなくなりました。総脂質摂取量は栄養学的な関心事項でなく、脂質摂取の制限の提案もしません」としました。
古い油やトランス脂肪酸(人工的に液体の油を固形化する際に生じる油)を控えれば、動物性でも植物性でも制限することはありません。ロカボを成功させるためにも、油をふんだんに使ったメニューでおいしく食事を楽しみましょう。