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- 敷島製パン創業者 盛田善平 ストーリー
「敷島屋製粉工場」が軌道に乗った頃、善平は小麦粉の二次製品の開発にも取り組みました。
その一つが、「日出麺」という即席うどんです。1904年頃、日露戦争勃発をきっかけに、携帯に便利で長持ちし、栄養価も高い食料があれば兵士に喜ばれるだろうという思いから開発。残念ながら陸軍では採用されませんでしたが、熱湯をかけるとすぐに柔らかくなり、味付きのつゆも同時にできあがるという商品は予想以上に好評でした。善平がかなり早い段階でインスタント食品という斬新な着想を持っていたことが分かるエピソードです。
善平は製パン事業をスタートするにあたり、安定して大量のパンを生産できる近代企業化された製パン会社を目指していました。そこで、それまでの常識であった徒弟制度ではなく、全従業員に短期間で製パン技術を習得させることを考えます。そのためには、従業員に分け隔てなく技術を継承できる、優れた製パン技師が必要でした。1919年、名古屋市内にあった俘虜収容所から母国に送還されるドイツ兵のうち、日本に留まりたいと希望している製パン技師がいると紹介されます。この人物こそが、敷島製パン株式会社初代技師長、ハインリッヒ・フロインドリーブでした。善平は会ったその日に破格の待遇で迎え入れることを決意しました。
ハインリッヒ・フロインドリーブは工場の建設からパン焼き窯の構築にいたるまで指導にあたり、製パン技術の継承に努めたのち1年ほどで退社。その後、神戸でベーカリーを開業しました。退社後も善平とフロインドリーブとの親交は続き、彼の息子であるフロインドリーブ2世と善平の息子である3代目社長の秀平もまた、兄弟のような付き合いをしました。
フロインドリーブは、1977年にNHKの連続テレビ小説『風見鶏』のモデルとなり、神戸で開業したベーカリーは、現在も日本を代表する老舗ベーカリー「FREUNDLIEB(フロインドリーブ)」として人気を博しています。
「敷島製パン株式会社」を創業して3年後の1923年9月1日。関東地方で死者・行方不明者が10万人を超える関東大震災が発生しました。当時はまだラジオがなく、有線電話による通信もできなくなったため、被害の情報が名古屋に伝わったのは翌9月2日のことでした。
その被害の甚大さを知った善平は、全力をあげて食パンやコッペパンを焼き、名古屋港に緊急入港した軍艦に積み込んで、材料のある限り何度も救援物資として被災地へ送りました。この救援物資としてのパンは、被災地の人々に何よりの贈り物として喜ばれました。
日本の食糧難解決という視点からパンづくりに邁進していた善平にとって、パンが被災者の食糧として役立ったことは大きな喜びでもありました。
丸三麦酒株式会社でカブトビールを生産していた赤レンガ工場(愛知県半田市)は、明治建築界の三大巨匠の一人ともうたわれた妻木頼黄による設計で、一部5階建ての重厚なレンガ造りの棟と、木骨レンガ造りの平屋の建物で構成されていました。
現在は半田市の所有となっており、2004年に国の登録有形文化財建造物に登録、2009年に経済産業省から近代化産業遺産に認定され、2015年からは観光施設「半田赤レンガ建物」として人々に親しまれています。