創業までのあゆみ
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1864年
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敷島製パン株式会社の創業者、盛田善平は、1864年(文久3年)に愛知県知多郡小鈴谷村(現在の愛知県常滑市小鈴谷)で造り酒屋を営む盛田太助家の五男として生まれました。
明治、大正、昭和を力強く生き抜き、ビール製造、製粉、そして製パンと新たな挑戦を続けた善平は、行動力と決断力をもつチャレンジ精神旺盛な人物で、稀代のアイデアマンでもありました。
盛田 善平 18歳(1882年)
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1889年
アイデアマンの片鱗が見えたビール事業
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1880年に酒税法が改正され、その影響で1882年に家業の酒造りを廃業、その後、善平は母方の叔父であるミツカン当主、四代中埜又左衛門の依頼でビール事業に携わることになります。善平は市場調査や設備機械の導入、技師の手配から販売までを一手に引き受け、1889年に「丸三ビール」を初出荷。「丸三麦酒株式会社」設立後は、さらにドイツの最新式機械や技師を手配し、「カブトビール」を世に売り出しました。
善平がビール事業を始めた頃は、宣伝という言葉はまだ一般的ではありませんでしたが、一部のハイカラ層の飲み物であったビールを一般大衆に愛されるものにするため、善平は様々な宣伝手法を用いました。東京ではビール業界で初めて太鼓や笛を使い町を練り歩く手法を、大阪では当時の流行語*に掛けた「勝ってカブトのビール飲め」というフレーズを宴席で芸人に言わせるなど、次々とアイデアを繰り出しました。善平が考えたこれらの宣伝は大いに受け、カブトビールの需要は急激に上昇しました。
カブトビールは本格的なドイツビールとしての味わいの評価に加え、善平の宣伝力により、1900年にはエビス、アサヒ、キリン、サッポロに次ぐ製造量を誇るまでになり、パリ万博にも出品、金賞を受賞しました。
こうした善平の"宣伝アイデア"はこれ以降も、様々な場面で効果を発揮することになります。*日清戦争に大勝し好景気に湧いていた頃、戒めとして「勝って兜の緒を締めよ」という言葉が大流行していた。
カブトビールポスター(提供:半田市)
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1899年
先見の明をもって挑んだ製粉事業
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一方、善平は次の事業として製粉事業をはじめます。
当時、知多半島では白木綿の織布事業が盛んで、綿糸のノリ付けに用いるノリの需要が急増していました。そのノリの原料となるメリケン粉(小麦粉)が飛ぶように売れていたことに着目した善平は、1899年に「敷島屋製粉工場」を創業します。
工場にはイギリスから新式の製粉機を導入し、イギリス人技師も迎え入れ、上質な小麦粉を製造。その後、ノリ付け用だけでなく麺類原料としても小麦粉の需要が伸びたのに合わせ、工場をさらに拡張します。その品質の良さから、敷島屋の粉といえば最高品との定評を得るようになりました。
敷島屋製粉工場
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1920年
食糧難の解決を願い創業した製パン事業
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1918年、第一次世界大戦の特需を背景に米の売り惜しみや買い占めが起き、米の価格が暴騰。富山県に端を発した米騒動は、全国各地に拡がりを見せていました。この騒動に心を痛めた善平は「この食糧難を乗り切るためには、米に代わる主食が必要だ」と考えていました。そんな折、製粉工場のドイツ製の発動機が故障、名古屋市内にあった俘虜収容所(*1)からドイツ人の機械技師を派遣してもらい修理をしました。その際、護衛兵から収容所ではドイツ人たちが自らの手でおいしいパンを焼いていることを耳にします。
善平はすぐさまパンの製法を学ぶと、当時手に入りにくかった耐火煉瓦を集め、代用品なども用いながら、なんとかパン焼き窯を作りました。
その窯で初めて焼きあがったコッペパンを、善平は何も言わず祈るような表情でかみしめていたといいます。『パンが米の代用食になる』と確信した瞬間でした。こうして善平は、1920年6月に「敷島製パン株式会社」を創業します。(*2)
~金儲けは結果であり、目的ではない。食糧難の解決が開業の第一の意義であり、事業は社会に貢献するところがあればこそ発展する。~
創立趣意書にも大きくうたわれているこの考え方を、私たちは創業の理念として今も大切にしています。
(*1)俘虜:戦争で敵に捕らえられた者。捕虜。第二次世界大戦以前の公式な呼び方。文中の収容所は国際法を遵守し、俘虜たちは緩やかな規律のもと、生活をしていた。
(*2)社名「敷島」の由来:https://www.pasconet.co.jp/corporate/name/
創業当時のパン焼き窯の新築工事
創業にあたり善平が起草した創立趣意書