特集 1 想いのバトン創業までのあゆみ
敷島製パンは2020年6⽉に創業100年を迎えました。社会課題の解決にチャレンジし、
お客さまの声に応える企業姿勢のルーツは、創業者・盛⽥善平の「⾷糧難を解決するため
パンを⽶の代⽤⾷に」という想いでした。この想いを受け継ぎ、
敷島製パンがこれまで取り組んできたチャレンジの数々を紹介します。
創業までのあゆみ
[挑戦のはじまり]
敷島製パンが製パンメーカーとして創業するまでには、創業者・盛⽥善平のさまざまな挑戦がありました。
1.ビールづくりに挑戦
敷島製パンの創業者・盛⽥善平は、知多半島で酒造業を営む家に⽣まれました。しかし明治13年(1880年)、酒税が倍増し家業は廃業へ。その後善平は、叔⽗の中埜家当主・四代⽬⼜左衛⾨(ミツカングループの創業家)からビールづくりの誘いを受け、ビール醸造に挑戦します。完成したビールは最初なかなか売れませんでした。そこで善平は、ドイツ製の機械を導⼊して品質向上させるとともに宣伝活動にも⼒を⼊れ、経営を軌道に乗せました。
ビール醸造を学ぶ努⼒
ビールづくりを学ぼうにも⼯場⾒学もさせてもらえず、知識を得るためにあちこちを訪ね歩く⽇々。ようやく⾒つけたビール醸造法の資料を丸3⽇かけて写すなど、苦労の連続でした。
奇抜な宣伝⽅法⼒
チンドン屋を雇って練り歩いたり、幇間(たいこもち)による⼨劇など、ユニークな宣伝を⾏いました。これが⼀般⼤衆に受け、ビールが愛飲されるきっかけとなりました。
次に善平が⽬を付けたのは、織物産業で使う⼩⻨粉でした。
2.製粉業に挑戦
善平はビールづくりと並⾏して、製粉事業をスタートしました。当時、知多半島で盛んだった綿布づくりの糊付けに、⼩⻨粉が使われていたからです。糊付け⽤だけでなく、うどんやきしめん⽤として需要が伸びていきました。
3.即席うどん・マカロニづくりに挑戦
⼩⻨粉の商品開発
製粉事業の成功から、善平は⼩⻨粉を使って即席うどんやマカロニづくりにもチャレンジ。もしこれが成功していたら、パンづくりをしていなかったかも…。
第⼀次世界⼤戦開始の激動の中、善平はついにパンと出会います。
4.パンとの出会い
ある⽇、製粉⼯場の機械の修理にドイツ⼈技師らがやって来た際、「ドイツ⼈俘虜の焼くパンがおいしい」という話を聞いた善平は、さっそく職⼈から学び、パンづくりをはじめました。
5.パン⾷普及を決意
この頃、⽶の価格急騰で困った⼈々が⽶屋を襲う「⽶騒動」が起こっていました。善平はパンが⽶の代⽤⾷になると考え、「敷島製パン株式会社」を創業。ビール事業の経験から、宣伝にも⼒を⼊れ、「シキシマパン」の名を広めていきました。
創業の理念
⾦儲けは結果であり、⽬的ではない。⾷糧難の解決が開業の第⼀の意義であり、事業は社会に貢献するところがあればこそ発展する。
そして、現在…
食料自給率向上に貢献したい
現在の日本も、食料を海外からの輸入に頼っているという課題があります。その解決のため、Pascoは「ゆめちから」をはじめとする国産小麦を活用した商品づくりに取り組んでいます。