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特集 1 想いのバトン敷島製パンのあゆみ①
敷島製パンのあゆみ①
[食生活を支えるために]
戦時中は残された社員が一丸となってパンづくりを続けました。
1944年、太平洋戦争の戦況悪化でパンは配給物資に。男性は出征していたため、女性もパンの窯入れや窯出し、鉄板運びなどの重労働を担い、配給パンや給食パン、軍部に納入するパンをつくり続けました。
製造を止めない工夫
工場の煙突は目立つため、空襲されないよう敷島製パンは電気窯を本社工場近くの学校へ移し、パンがつくれない事態を回避しようと努めました。
災害時にはパンを救援物資として届けました。
創業から3年後の1923年、関東大震災が発生。敷島製パンでは工場をフル稼動し、食パンやコッペパンを救援物資として届けました。パンは非常時の食料として重宝され、普及のきっかけに。
さらに1959年の伊勢湾台風では、本社のある東海地方が被災。幸い、工場に大きな被害がなかったため、100万食以上のパンを支援し、水没した地域にも届けました。
被災時の支援体制
1995年の阪神・淡路大震災では、神戸冷食プラントと大阪豊中工場が被災し、製造がストップ。大阪昭和工場から被災地へパンを届けました。
そして、現在…
事業の継続と災害支援で非常時も人々の食生活を支える
2011年の東日本大震災では2工場の被災に加え、供給電力の不足による計画停電などの影響もありましたが、被災地に届けるパンをつくり続けました。
災害や新型コロナウイルスの影響下でもライフラインを支えるため、パンをつくり続けています。